8日間のキリスト教的ヴィパッサナー瞑想に与かった方の体験談(その5)

2015年9月14日〜23日の参加者より

(修道女)

 「神さまからの贈り物“気づきの瞑想”キリスト教ヴィパッサナー瞑想がめざすもの!」

 今 回、初めて参加させていただいた修道女です。8日間の瞑想の日々を通して、今までエゴに振り回されていた古い自分が徐々に開放されていく不思議な 、でも清々しい体験をさせていただきました。 指導者である柳田神父様から「年齢は関係ありません!」と言われたことも 心強い限りです。この体験を言語化するのは困難ですが、少しでも体験を分かち合わせていただければと願います。

ま ず、息を吸って吐く『呼吸』の具体的な実践の積み重ねは、何度も耳にし て いる個所ですが、創世記にある人間の創造の起源 に目覚めさせてくれました。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた 。 人はこうして、生きるものとなった。」(創世記27

五 感の活用を通して感覚の世界から内面の世界へ、表面感覚から内部感覚へと聴覚・視覚・臭覚・味覚・触覚をフルに活用し、身体性(からだせい)に目覚め、 『気づき』そのものになっていく段階を得た瞑想の時間は、座っている足の痛さを通り抜けて、無限の愛のアガぺに生きる貴重な時に変えられて いきました。大げさに聞こえるかもしれませんが、今回の体験は『今ここに、あるがままに、一切の判断をせずに、アガペの愛』に生きる実存感覚を呼び覚ま し、平和な幸せな感じ方に気づいていく体験となったと言えるでしょう。

ま た、毎日のキリストの教えに立脚する霊性神学や他宗教についての講義は、理知的理解のためにも修道召命の根源に気づく学びとなりました。本来の真の自己に 目覚め、神が望まれる本来性を生きるものとなる真の存在は、常に目覚めています。主イエスが愛する弟子たちに諭された『目を覚まして いなさい!』を日々、心にとめて、気づきの瞑想を実践しながら、エゴ(自我)が本来の自分を取り戻していくプロセスの歩みとなることも徐々に分かり始めて います。

これからの課題は、あわただし現代社会に生きる私の毎日を、いかに、今回の体験に根差して、積み重ねていくかです。その時に、「一人で人里離れた山に登り、祈られた主イエス」に思いを馳せています。主の生き方にひたすら倣いたいと願っています。

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2015年11月28日〜12月7日の参加者より

(修道女)

満8日間のキリスト教的ヴィパッサナー瞑想から帰って、3日目を迎えています。
ヴィパッサナ-とは、はっきりと観るということ。「神の国は、実にあなた方の只中にある」(ルカ17,21)と書いてあるとおり、神様のあわれみ深い愛は 私たちの心の中に既に満ちている。けれども、私たちはそれに十分気づいていない、その無条件の神様の愛に気づくための窓口は、私のからだの感覚、特に呼 吸、一息一息、今、ここに意識を集中することから、だんだんと実感されてくる、それを実際に体験しました。価値判断をいれずに、ただあるがままに気づき続 ける。

瞑想の8日目の昼過ぎ、突然ストーンと気分が落ち込み、不安と恐れに襲われました。「こんな体験をしても、あの現実の日常生活に戻っ たらきっと同じ、わたしはきっと何も変わらない。変わるはずがない・・・」胸にぎゅーっと絞られるような痛みを感じ、しまいには意識がなくなればいいのに とさえ思いはじめました。しっかり体験して明日からこの瞑想を生かして頑張ろうと、元気になっていたはずなのに・・・。焦りました。黙想の家の周りをぐる ぐると歩き続け、この気持ちから逃げずにつらいけれども観ることにしました。そう思った瞬間石に躓き、はっと目が覚めました。私は、知らず知らずのうちに まだ帰っていないのにその先のことを心配し、不安になっていたのです。まだ来ない未来を心配して。今、ここ、わたしはここにいる。でも、そのようにぐるぐ ると考えてしまった私を裁かない・・・すると胸の苦しさも和らぎ穏やかさが戻りました。

帰ると、留守にしていた間のいろいろな仕事が降りかかってきますが、焦りを感じたり、少しいらいらしても、その都度気づいて、自分の呼吸に意識を向けると、次の瞬間には
普通に落ち着いて対応している私がいました。

この瞑想の良いところは、日常生活の中でたくさん生かせるということです。歩くこと、食べること、人と話をすることの中にも、気づくこと(今、ここ、に意識を戻すこと)で、神様の命に生かされていることを実感します。

朝 の黙想の時間の前半に、このヴィパッサナー瞑想をしてその日の福音を読むと心の中でよく響きます。「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来な さい。休ませてあげよう。」(マタイ11,28) と仰るイエスの息遣いを感じて、こころもからだも癒され次の一歩が踏み出せるように感じました。

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(修道女)

日常生活に戻り今日で4日目になりますが、今回の瞑想で得た深い体験が私の日常で生き生きと私を活かしています。

それは4日目の6時45分からの第1回目の瞑想のあとで体をほぐすために立ち上がった時にパット閃いた「私の存在は呼吸である」という認識でした。

その日の16時からの第4回目の瞑想で呼吸の気づきの瞑想に取り組んでいた時「私とは何者か」「私の存在は呼吸である」と再び体験したのです。

それだけではなく、この時とばかり毎日よく眠っていた私ですが、第6日目の朝方急に次の言葉が私の中にあり、目覚めました。「私の存在は呼吸である」と。あ〜そうだ!!と思い、この気づきを大切にしていこうと思いながらまた眠りました。

日常生活で呼吸の気づきに意識を向けることが多くなっています。祈りの時はもちろんですが、歩くときは2歩で吸って3歩で吐く、掃除や料理など単純な仕事の場合には鼻孔の下の呼吸の気づきに意識を向けるなど、これらは自然と日常生活に馴染んできています。

「今、ここであるがままの自分に気づく」ことを目指しながら、日常生活も修行の場になり得ると実感しております。

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