8日間のキリスト教的ヴィパッサナー瞑想に与かった方の体験談(その3)

2015年3月21日〜30日の参加者より       

(信徒女性)

昨年、日帰り、一泊二日、二泊三日、三白四日と経験してからの参加でした。毎日の瞑想による黙想を身体にしっかり染み込ませるためにと思って、覚悟を決めての参加です。

イグナチオの霊操による8日間の黙想会は過去2回経験していますが、それらとの違いは理解していましたので、大きな混乱はありませんでした。特に信徒の方は、短い日程からの参加の上で8日間にご参加されることをお勧めします。

通常の黙想会は講話等のインプットの後、こころに響いたみ言葉を各自で祈り、適宜面接があり、祈りの道に個人的に、あるいは、黙想会としてのテーマがあるのが通常でしょう。

キ リスト教的ヴィパッサナー瞑想の黙想会の場合は、それ以前の、「祈り方」に出会う場と思っていただくと良いと思います。「祈り方」とは、自分が神とどう向 き合うか、神との関わりを問い直すことです。キリスト教的ヴィパッサナー瞑想とは、そのために、自分の中にあって、神との親しい交わりを阻害している自我 (エゴ)に気づいていくための、心と体の訓練、といえるでしょうか。

一日に5回、1時間ずつの瞑想は禅の接心と同じようなハードなものですが、その「行」を通して自然にエゴが削ぎ落とされていく効果があると思います。本当に自分と神だけが向き合っている、貴重な時間でした。

ヴィ パッサナー瞑想は「気づきの瞑想」とも言われ、呼吸を入り口に体の感覚に気づいていくことから始まり、感情や思考が、実は「今ここ」の感覚ではなく、過去 の経験や未来の不安という今ここの現実ではない感情や思考に振り回されていること(エゴ)に気づくことで、自分の生きる「今ここ」に真に現存する神との出 会いを体験します。doing(何かをするため、目標を達成するため)でなく、being(存在すること)の世界に生きることは、ただ「ある」だけで愛されている存在として自分を赦すことができる価値観の大転換でした。

黙 想が明けてからも、日常生活の中で小さな瞬間を瞑想に生かせるのも大きな効果だと思います。歩くとき、家事をするとき、歯を磨く時、今を生きる生き生きと した実感が感じられて、一瞬一瞬が愛しく感じられます。また、感覚はその人固有のものですから、自分を赦すと同時に人の多様性、独自性をも認めることがで きます。

昨 今、キリスト者も禅を通して心と体を整える方が増えていますが、キリスト教的ヴィパッサナー瞑想は、普遍的なヴィパッサナー瞑想、あるいはマインドフルネ ス瞑想を私たちのキリスト教の信仰と違和感なく実践できる場だと思います。ぜひ、多くの方々に経験していただきたいと願ってやみません。

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(修道女)

帰 りの電車の中で、8日間の瞑想でうけた感想を書いてみようかなと思いを巡らしていると、ふっと2013年8月、ブラジルの青年達と2台のバスを貸切り、リ オ・デ・ジャネイロで開催された世界青年大会に参加した際、コパカバーナの海岸を通られるフランシスコ教皇を一目この目で見たいと青年達に負けず劣らず心 をときめかせてデジタルカメラを片手に600万人の人ごみの中で待ちに待った日の事を思い出します。そして、教皇様は私の前を通られカメラにきちんとおさ められたときの感動は「出会えた」まではいかなくとも「私は見ました。」という迫力ある感動がありました。

「来てみなさい。」この言葉通り参加した今回のこの瞑想も「はっきり観る。」瞑想ですが、目を閉じる方がよく分かる(見える)事に気づきました。目を閉じ暗闇の中で見る世界は感覚を通して体が世界を判断し脳に知らせてくれました。目を開けて世界を判断するよりずっとずっと豊かな言葉があふれていました。

私 にとって瞑想に入る前の暗闇の印象は、ネガティブな印象がありました。死の世界、何の存在もない世界、それから、私の嫌な部分が隠された見たくない世界な どと表現したくなるものでした。そこに存在する自分を言葉で表現するならば悲しい私、苦しい私、罪びとの私・・・。そう思い込んでいた世界をありのままに 見る機会が与えられた8日間、いろんなエクササイズを行いながら過ごしました。いつもの黙想会は、私にとっては、私の小さな学識と祈りの努力の程度によっ て神様に出会える場です。

しかし、この瞑想は、聖書の中の多くの病人のようにそばをお通りになられたイエスに触れる機会を待つ者のように過ごしました。ザーカイのようにイエスがよく見える木の上に登って(場所を探して)待つこともありました。イエスと共にいながらイエスの事がよく分からない弟子のようにゲッセマニの園(瞑想中)で眠ってしまう事もあり、終わってみると聖書の世界を生きていたのだと気づかされました。そして、8日目の闇に住む私に新しい気づきがあり、私の心臓が痛みを感じていると気づきました。一寸先の闇(未来)、 明日からの現実の生活に胸を痛め始め、思いめぐらしているわたしがいました。「明日からどうやってうまく険しい現実を乗り越えて行こうか。」と。瞑想の世 界に居ながら実生活の現実を見つめ始めていました。私の持っている知恵で明かりをつけなければと思っていると、その闇の中から見つめているまなざしを感 じ、瞑想の中で「神様、あなたにゆだねます。」と叫んで一寸先の暗闇に身を投げた途端そこは大きな、大きな深い広い暗闇の世界。どこにも障害などない安ら かな場所でした。私の胸の痛みはすっとなくなって頭も体もすっきりとしていました。この瞬間、心の中で「私は見ました!」と叫んでいました。あの教皇様を 見た日のように、いやそれよりも迫力ある感動がありました。私は今、神の世界と自分の世界が一つであると気づき、自由な世界に立っています。

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(修道女)

・呼吸を意識する、いつくしみの眼差しで。穏やか、平和、楽。それは情感ではなく、お腹が出る、引っ込むを意識し、鼻の入り口のひそやかな空気の流れを見る。休むことなく絶えず息がつがれていく。

・ 頭のてっぺんから足先までを意識する。造形を意識するしかできない、でもイメージは非現実。そうだ、体全体が息をしているはず。心臓の鼓動に合わせて じーっと頭のてっぺんを意識すると、呼吸している!後頭部も首も肩も腕も肘も。胸も背中も太ももも膝も足先まで休むことなく全身が呼吸している。私が生き ているというより、生かされているという方が当たっている。

そうすると主体的な私は、自分は何処にいるのか。命を全部もらって、しかもずーっと生かされ続けている。では私は何処にいるのか。何なのか。

・エゴから自己中心に生まれた感情や考えではなく、エゴが入れない感覚こそ唯一の実体・命の主の場。そこにのみSELFが実在する。なるほど、食事で一つ分かった。口の中に入った食物の触感、かむ音の変化を意識する。さー食べるぞと食事に襲い掛かる私はまさにエゴそのもの。悪いとは言わない。でも自分中心の欲のかたまり。味を楽しんでエゴに取り込むのではなく、味もいただく。

・感情も考えも自分と人、自分と出来事の間で生まれるもの。自分のものとして取り込むとエゴまみれになってしまう。

9日 目。めざめると下半身が重い。どうしたのか。何も無理をした覚えはない。「さあ、自分の今の気分を見てください」と言われた。気分とは感情ではなく、自分 を覆っている空気。そう私はここで良い体験をした。この特殊環境を出た後もこれをどう続けられるのか不安はある。でもまあ前向きに行こう!まてよ。これは 無理に作っている前向きのパーフォーマンス。ほんとうではない。そうすると体の方が真実。足がいやに重い。わたしは前に歩き出すのに不安を覚えている。ま さに二の足を踏んでいる。慈しみ深い主の眼差しでこの私をいただく。この足の重さは何かと不安な感情が生まれた。じーっと重さを意識しているといつの間に か不安が消えた。感情は体の真実を表す信号だと言われるのはこのことなのだ。

・何ひとつも自分のものとして取り込まず、慈しみの眼差しのもとに幼子の私を委ねます。私が幸いで安心してあなたの命の中に生きていけますように。

「主よ、あなたはわたしのために体を備えてくださいました。『ご覧ください。わたしは来ました。神よ、御心を行うために。』」(ヘブライ10)

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(修道女)

キリスト教的ヴィパッサナー瞑想による8日の黙想を通して、これまでにない特別な体験をしました。

黙 想というものはだれにとっても何がしかの霊的な体験をもたらし、情動的な感動も含めた霊的ないのちを得る機会だと思いますが、今回の黙想は私にとってもそ れほどいわゆる「テンション」があがるものではありませんでした。しかし終わってみて確かに変化があった点は、自分のとらわれや弱さがよく見えるように なったわりには落ちこんでおらず、周りに対してネガティヴな認識をもって見ていない、周りの世界に対して以前より判断していない自分がいるという点です。

た しかに8日間、ありのままの現実だけに目を留めることに専念し、頭が疲れていないこともあってか、頭が非常に軽くなり、余白が生じたような自由さがありま す。これがまさに頭がよく休んだ状態なのでしょう。よく休めた朝のようなすがすがしさに加えてそれが一過性のものではなく、自分の内面からの自由さ、平静 さ、強靭さともいえるような内的な落ち着きをいただいたような気がします。

これらの体験から「現実をありのまま」に気づくことは、私を取り 巻くすべてのことに対して肯定し続けることであり、これこそ自分をすてる行為だと理解できます。また現実をありのまま見つめる、気づくことがなぜ、そんな に大事なのかというと「現実こそ」が一番大切だからで、神が今、ここに私を通して私の中に現れているからだと理解できました。過去でもなく、未来でもな く、ありのままの今のこの現実が恵みそのものなのです。それに気づくことこそ信仰体験でなくて何でしょう。

さて、今、これからの使徒職に関する決断、計画などを立てているのですが、余計な思いや感情つまり怒りや決めつけ、不安や恐れなどの否定的な感情に邪魔されずに、楽な気持ちで進んでいることをみるにつけ、少々驚いています。

毎日行っている意識の究明とあわせて、今この瞬間、今日一日のふり返りを判断なしの気づきの祈りとして捧げていきたいと思っています。

個人的には思考に傾きがちな傾向に向き合うことは大変でしたが、同時にこれが自分を自分で疲れさせている日々の傾向であることにも気づきました。

キ リスト教的ヴィパッサナー瞑想に基づくキリスト教的における神の内在と受肉の理解に関する講義は、瞑想そのものに埋没して宗教性を排除している錯覚に陥ら ないためにも、そして何よりもありのままの現実に気づくことがどれほど意味深いことなのかを神学的に究明するために非常に充実した時間でした。かつて西田 哲学に傾倒していた時期を懐かしく思いつつも、そのときと同じ問題意識から深い理解にたどり着いた気がして非常にうれしかったです。このような理解も霊的 な体験の究明のために非常に助けになると思いました。

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